清めの塩は何のために?京都府宮津市が「清めの塩を死者を冒涜することになるとして廃止を呼びかけた」 という記事がありました。 仏教家としてこの問題に意見を述べたいと思います。 まず穢れには死穢と血穢があります。 死穢とは亡くなった人に触れることによって生じる穢れであり、 血穢は血に触れることによって生じる穢れです。 面白いことに死穢についてはその伝染の仕方まで決まっています。 今では迷信と思われそうですがそうではありません。 伝染病などで死んだ場合実際に感染します。 感染するごとに毒性は弱まるといわれていますので、死穢の伝染に ついては統計的なものとも考えられます。 殺菌作用のある塩で清めたのも科学的な根拠の ないことではありません。 浄土真宗では塩による清めを行わないとも言われていますが、 ごく最近広まった習慣のようで昔からではないようです。 ですから清めの塩は根拠がないとは言い切れません。 前述の宮津市では「葬儀に参列した人が塩で清めることの 『清め塩』について、市民が何の疑問も持たずに、それが当然と 思い込んでいる人たちが多いことから、このような風習に とらわれない生活をとの願いで啓発しているものです。」 と言っていますが疑問を持っていないのはどちらでしょう? また死に対する穢れの意識というのは根強く存在します。 最近では散骨が広まっていますが、どこかでお骨を撒こうとすると 必ず反対が起こります。 葬祭場、火葬場を建設しようとすると必ず反対運動が起こります。 われわれ僧侶が法服で病院に行くと高野山でもない限り 嫌がられます。 お骨・骨壷などは漠然と気味が悪いと思われています。 これらは確かに差別と関係ないとは言えませんが、行政が 「清めの塩の廃止を呼びかけることによって」 なくなるものではありません。 むしろきちんとした宗教教育を行い、死の儀式である葬式に参加させ、 一人一人が死というものにきちんと向き合うようにならなければ 「死」に対する気味悪さはなくならないと思いますし 差別もなくならないでしょう。 2006年05月05日 |